韓経:【取材手帳】企業に任せきりの抗日遺跡の保存

  • 2018年9月13日

高宗(コジョン)の密旨を携えた議政府参賛(朝鮮時代の内閣要職に相当する一つ)李相ソル(イ・サンソル)は鬱憤に耐えることができなかった。1907年4月に漢陽(ハンヤン)を発ち、6月25日オランダ・ハーグに到着したが、日帝の妨害で万国平和会議に参加しようとしていた目的を達成できなず、あまりの怒りのため気が狂いそうになっていた。副使として彼に同行した李儁(イ・ジュン)は7月14日自決を選んだ。

死の道に続くのは難しくなかったが、李相ソルは別の選択をした。通訳を担当していた李ウィ鍾(イ・ウィジョン)ら特使団を率いて欧州を飛び交り、日帝の蛮行を知らせた。ロシア沿海州一帯を根拠地として武装独立運動を繰り広げた李相ソル先生の話だ。

彼は1917年ウスリースクで憤死した。悔しさと恥のためか、すべての記録を消して、何も残さないでほしいと頼んだ。ロシア極東第2の都市ウスリースクから車で30分ほど走ると見えてくる田舎の集落ラズドリナヤは李相ソル先生に関するほぼ唯一の跡が残っている場所だ。彼は生前に遺骸を川に撒いてほしいと頼んだ。光復会と高麗学術財団などが場所を突き止めてロシア政府の協力を得て2001年10月に「李相ソル遺墟碑」を建てた。

先日、現地に進出した企業家と一緒にこの遺墟碑を訪れた。遺骸が撒かれたラズドーリノエ川が悠々と流れていた。100年余り前の悲劇を知るすべがない現地の若者たちには静かなキャンプの名所となっている。そのためかあちこちにゴミが転がっていた。同行した企業家は「週に一回、ボランティア班を作って片づけているが、どうしても限界がある」と残念そうだった。

李相ソル遺墟碑の他にも、ロシア沿海州は抗日独立運動の聖地とも言えるところだ。中国琿春と国境を接しているクラスキノ〔旧・燃秋(ヨンチュ)〕で安重根(アン・ジュングン)義士は偉業に先立ち断指を敢行した。最初の韓国人定着村である地新墟(チシンホ)村もここにある。放置されるがままになっていた断指同盟碑は、ナミャンアロエという現地進出企業が管理を続けてきたおかげで最近では観光客の足が絶えない。地新墟には大衆歌手ソ・テジが記念碑を建てたが、その地が私有地に編入されて今は出入りさえ不可能だ。政府の新北方政策はその真っ最中だ。民間のボランティアだけに頼るのではなく、政府も記憶の保存に気を遣うべきだ。

パク・ドンフィ/政治部記者