韓経:【寄稿】「近代市民」概念が抜けた韓国の公教育

  • 2016年8月9日

韓国の公教育は金泳三(キム・ヨンサム)政権時代に、1949年から施行されてきた教育法を教育基本法に改正しながら教育の目的が大幅に修正された。民主化運動後に登場した新政権がしたことは「すべての従来の価値の解体」と表現することができる。建国後の数十年間にわたりそれなりに韓国を近代国家として完成するために作動した教育の目的も、その時に解体された。

従来の教育法には愛国愛族、自主独立、固有文化の増進、真理探求と科学的思考力の涵養、自由重視と責任尊重、審美的情緒と芸術涵養、勤倹労作、務実力行、堅実な経済生活などの内容が教育方針として明示されていた。そして1968年に制定された国民教育憲章にも、教育法に提示された方針が適切に反映されていた。これらの教育の方向は、韓国という近代国家を完成するために国民がどういう姿勢と素養を備えるべきかを明示したといえる。

ところが民主化時代を標ぼうして1997年に制定された教育基本法からは従来の教育法にあった教育方針は廃棄され、その代わりに「学生の創造力啓発および人格育成を含む全人的教育を重視する」という内容に変わった。

人格育成と全人教育が強調された歳月が20年流れた。しかし今日の韓国には誣告罪など人格の底辺を表す犯罪が蔓延しているというのは、アイロニカルだといわざるを得ない。このようになったのは、人格育成というものが近代市民の徳目に関連しないまま伝統的な価値にとどまり、人々の行動として内面化するほどの切迫感を与えることができなかったためではないかと思う。

我々の憲法は自由民主主義国家を追求する。その構成員である近代市民は自由な存在として新しく生まれた個人だ。ここで自然に身体の自由と財産権の概念が導出される。したがって個人が汗を流して努力して得た財産は当然、その人が全面的に権利を持ち、国家であれ誰であれ侵奪できないという財産権の概念が重要になる。

また造物主がすべての人間に自由を付与したとすれば、人間は神の前にすべて平等だという価値が導き出される。したがって韓国公教育の目的なら、近代国家の市民の徳目である自由、財産権の重要性、平等、そして自由であるために要求される専門性の育成と経済的独立などの内容が最小限、優先的に含まれなければいけない。

このような近代国家の精神が染み込んだ教育とはどんな姿だろうか。個人の素質に基づいて専門能力を育て、多様な領域の職業を探すのに直結する実質的な教育がそのような姿であろう。独立した成人として自分の職業を通じて自ら経済的に自立する個人こそが自由な近代人の姿であるからだ。このように自身の領域で専門性を基礎に社会という協同体の中で貢献する時、人格は自ずと育まれる。

社会は複雑になり、要求される職場は多様だが、韓国の保護者と子どもは以前の時代の基準で「士」に該当する職業にこだわる。もし過去20年間、我々の公教育に「近代国家建設の責任を負う市民」の概念が溶け込んでいたとすれば、今ごろ韓国の保護者と育っていく世代の職業観は大きく変わっていたのではないだろうか。にもかかわらず、韓国教育界が考える教育政策とは、大学入試制度や入学定員配分をあれこれと直すものと考えるようだ。韓国の公教育は教育の目的を正すところから新たに始めなければいけない。

ムン・グンチャン崇実サイバー大学授・経営学